五品江戸廻送令はなぜ出された?対象5品目と失敗の決定打を徹底解説
1859年に横浜港などが開港した直後、幕末の日本経済は未曾有の大混乱に直面しました。海外への輸出急増に伴う品不足と物価高騰を抑えるため、江戸幕府が1860年に打ち出した統制策が「五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)」です。
日本史の教科書や大学入試でも頻出の重要政策ですが、単なる法令の名前だけでなく、「なぜ制定され、なぜ瞬く間に失敗へ追い込まれたのか」という市場経済のメカニズムを紐解くと、幕末の権力闘争と社会の激変が鮮明に見えてきます。本稿では、対象となった5品目の内訳から幕府の思惑、そして崩壊に至った決定的な背景を分かりやすく解説します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:1860年に幕府が発令し、生糸など指定5品目を必ず「江戸の問屋」を経由して横浜港へ輸出するよう命じた統制令。
- 要点2:急激な自由貿易による江戸市中の品不足・物価高騰を抑え、幕府を支える特権商人(問屋)の利益を守る狙いがあった。
- 要点3:産地の在郷商人のサボタージュや列強諸国の猛反発に遭って実効性を失い、1866年の改税約書で正式に撤廃された。
【基礎知識】五品江戸廻送令とは?幕末の貿易開始と制定の背景
1858年の日米修好通商条約締結を経て、翌1859年(安政6年)に横浜港、長崎港、函館港で自由貿易がスタートしました。鎖国体制が解かれた日本から、欧米諸国に向けて大量の物資が輸出されるようになります。
当時、最も激しく動いたのが「横浜港への物資ルート」でした。開港前、日本全国の特産品は一度大坂や江戸の特権商人(問屋)に集荷され、そこから流通する強固な中央集権的ルートが確立されていました。しかし、開港と同時に各生産地の商人(在郷商人)は、中間マージンを取られる江戸の問屋を素通りし、直接横浜の外国商人に品物を持ち込んで高値で売りさばく「直売り(じか売り)」を始めたのです。
この劇的な流通ルートの変化によって、国内市場、とりわけ100万人規模の消費地であった大都市・江戸へ届く物資が極端に減少し、激しい経済摩擦が引き起こされました。
【なぜ出されたのか】五品江戸廻送令が制定された2つの決定的な理由
幕府が1860年(万延元年)閏3月に五品江戸廻送令を発布した背景には、放置できない2つの切実な事情がありました。
第一の理由は、江戸市中の深刻な品不足と物価高騰(インフレーション)の抑制です。産地から横浜へ物資が直行した結果、江戸の町では生活必需品が枯渇し、物価が2倍から数倍へと跳ね上がりました。庶民の不満は爆発寸前となり、打ちこわしや治安悪化のリスクが急激に高まったため、幕府は江戸への物資供給を強制的に回復させる必要に迫られたのです。
第二の理由は、幕府財政を支える江戸問屋の保護と幕府の権威維持です。江戸の問屋商人は幕府に冥加金(みょうがきん=税金)を納める見返りに独占販売権を得ていました。在郷商人が横浜と直接取引を続けると、既存の問屋システムが崩壊し、幕府の統制力そのものが揺らいでしまいます。物資を一度江戸に集めることで、幕府の管理下で貿易をコントロールしようと試みたわけです。
【対象5品目の一覧】生糸・雑穀・水油・蝋・呉服の特徴と選定理由
五品江戸廻送令で指定された品目は、当時の貿易と国内消費において極めて重要な意味を持つ以下の5品目でした。
| 対象品目 | 品目の概要と指定された理由 |
|---|---|
| 生糸(きいと) | 幕末の全輸出額の過半数を占めた最大の輸出品。ヨーロッパで蚕の微粒子病が流行していたため需要が爆発し、国内供給が逼迫して価格が高騰した。 |
| 雑穀(ざっこく) | 大麦、小麦、大豆、小豆など。庶民の主食や非常用食糧であり、米価に直結するため流出を防ぐ必要があった。 |
| 水油(みずあぶら) | 菜種油や胡麻油などの液体油。江戸市民の夜の明かり(灯火用)や調理に欠かせない最重要生活必需品。 |
| 蝋(ろう) | ハゼノキの実から採る木蝋(もくろう)。ろうそくの主原料であり、海外需要も高かったため国内在庫が枯渇しかけていた。 |
| 呉服(ごふく) | 絹織物。生糸が大量に輸出されたことで国内の機織り産業(京都の西陣や関東の桐生など)が原料不足に陥り、衣料品の供給を守るために指定。 |
これらの品目は、すべて「江戸の市民生活に直結している必需品」かつ「輸出需要が高く海外へ大量流出していた物資」という共通点を持っていました。
【テスト対策】年号の覚え方・語呂合わせと5品目の暗記テクニック
日本史の受験対策や定期テスト対策として、五品江戸廻送令の「年号」と「5品目」は確実におさえておきたい頻出ポイントです。記憶に定着しやすい語呂合わせを紹介します。
【年号の語呂合わせ:1860年(万延元年)】
・「人は群れ(1860)なす五品江戸廻送令」
・「一発群衆(1860)が怒った廻送令」
開港直後の混乱で人が群がり、物価高に庶民が怒っている光景をイメージするとスムーズに覚えられます。
【5品目の覚え方】
頭文字を組み合わせた以下の語呂合わせが定番です。
・「ごくうの生水(なまみず)」
(ご=呉服、く=雑穀、う=蝋、生=生糸、水=水油)
・「いつも雑な生水」
(い=生糸、つ=蝋、ざ=雑穀、なま=生糸、みず=水油、ご=呉服)
【なぜ失敗したのか】五品江戸廻送令が事実上崩壊した3つの理由
幕府の強い号令のもとで発令された五品江戸廻送令でしたが、実際にはほとんど機能せず、事実上の空文化(失敗)に終わりました。その決定打となった理由は主に3点あります。
第1に、在郷商人の徹底したサボタージュと密輸です。生糸などの生産地である上野(群馬県)や信濃(長野県)の商人たちは、わざわざ江戸を経由して中間手数料を取られることを嫌いました。夜陰に乗じて荷物を横浜へ直接運び込んだり、品目の名目を偽って輸出したりする抜け道が横行し、幕府の取り締まりは追いつきませんでした。
第2に、イギリスをはじめとする外国公使・商人からの激しい抗議と圧力です。自由貿易を定めた条約違反であるとして、英公使オールコックらは幕府へ強く抗議しました。幕府は「貿易を禁止したのではなく、江戸を経由させているだけだ」と弁明しましたが、流通の遅延とコスト増に激怒する列強の圧力をはねのける力は残っていませんでした。
第3に、幕府自身の権力低下と取り締まり能力の限界です。当時は桜田門外の変(1860年3月)が発生した直後であり、幕府の権威は大きく失墜していました。全国の商人たちを力でねじ伏せるだけの統治能力は、もはや幕府には残されていなかったのです。
【その後の歴史】形骸化から改税約書(1866年)による完全撤廃へ
実効性を失ったまま放置されていた五品江戸廻送令に、最後の引導を渡したのが1866年(慶応2年)に締結された「改税約書(かいぜいやくしょ)」でした。
長州征討の失敗や列強からの軍事的な圧力により完全に主導権を失った幕府は、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国と改税約書を結ばされます。これにより輸入関税が一律5%前後に引き下げられただけでなく、開港場における完全な自由取引が明文化され、五品江戸廻送令は正式に完全撤廃されました。
この結果、日本の市場は完全に世界資本主義の波に組み込まれ、明治維新へと向かう経済的・政治的激変がさらに加速していくことになります。
【五品江戸廻送令】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:五品江戸廻送令が出された後、江戸の物価高騰は収まったのですか?
A1:物価は収まりませんでした。在郷商人が抜け道を使って横浜への直売りを続けたことに加え、金銀の交換比率の違いによる金貨流出や幕府による万延小判への改鋳(通貨価値の下落)が重なり、幕末のインフレーションはむしろ加速しました。
Q2:対象となった5品目のうち、最も幕府が統制したかった品目は何ですか?
A2:圧倒的に「生糸」です。当時の日本の総輸出額のうち50〜80%近くを生糸が占めており、外国商人が最も求めた品目でした。生糸の流通ルートを抑えることこそが、幕府にとって貿易主導権を握るための最大の鍵でした。
Q3:五品江戸廻送令と株仲間の関係は?
A3:幕府は江戸の特権商人である「十組問屋(株仲間)」の特権を再強化することで物資を江戸に集めようとしました。しかし、すでに台頭していた新興の在郷商人の自由な経済活動の勢いを止めることはできず、封建的な商業システムの限界を露呈する結果となりました。
まとめ:五品江戸廻送令が示した幕府権力の限界と時代の転換点
五品江戸廻送令は、開国によって押し寄せた資本主義の市場原理に対し、旧態依然とした封建的統制力で対抗しようとした江戸幕府の最後の試みでした。しかし、自らの利益を追求する生産地商人のエネルギーと、圧倒的な軍事力を背景にした欧米列強の自由貿易要求の前に、幕府の統制令は脆くも崩れ去りました。
この政策の失敗は、単なる流通政策の躓きにとどまらず、江戸幕府が日本全国の経済をコントロールする能力を完全に失ったことを内外に示す決定的な契機となったのです。 (出典: 五 品 江戸 廻 送 令(Yahoo!ニュース))